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SMの定義

 1999年、世界保健機関(WHO)の総会において、「健康とは、身体的、精神的、霊的、社会的に、完全に良好な動的状態であり、単に病気あるいは虚弱でない、ということではない。
(Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease of infirmity.)」と定義した。
 人が人の健康を害することを虐待(暴力)といい、いかなる虐待(暴力)も正当化されることはない。

 SMとは、性倒錯の性行動を、特定の人物との間での合意の上で、敢えて擬似的に行なう性的なイメージプレイのことである。
 これは、虐待(暴力)の根絶を目的とする国際的な活動において、許容されるSMの定義であるが、SMにおける行為はあくまでも虐待(暴力)であり、それを正当化するものではない。

 合意が成立するためには、意思能力が必要であるが、意思能力がある者とは、心身共に健康な成人であり、未成年者・知的障害者・精神障害者・認知症の者には意思能力がないとされる。
 睡眠・飲酒酩酊のほか、心神喪失や心神耗弱においても意思能力は認められない。
 合意が出来るのは心身共に健康な成人同士であり、意思能力のある者とない者との合意は成立しない。
 また、心理的・物理的に抵抗ができない状態を抗拒不能といい、心神耗弱の状態に準じ、事前に成立した合意に関しても、その法的な効力を喪失する。
 SMにおける行為はあくまでも虐待(暴力)であり、抗拒不能の状態を構成することが多く、その合意には法的な効力が無いということを自覚していなければならない。

緊縛美とは何か?

緊縛美という時、大きく二種類に別けられる。
緊縛の技術に関するものと、いわゆる被虐美といわれるものである。

緊縛の技術に関するものの場合の緊縛美とは、すなわち緊縛の技術に関する評価である。
つまり、緊縛が上手いか、下手かというものであるから、その関心は縄のみにあるといってもよい。
表現するのは緊縛の技術であるから、緊縛の対象は人であろうとモノであろうと関係ない。
嫌な言い方をするなら、緊縛の対象となる人は誰でもよいのである。
そこにあるのは、縛り手の「自分の縛りは上手いだろう!」という自己主張である。

一方、いわゆる被虐美の場合には、緊縛の対象は必ず人である。
何故なら、その価値基準は、対象がいかに苦痛を感じているかにあるからである。
ただし、被虐美が成立する条件としては、醜悪が美に含まれるという「醜の美学」という考え方が必要になる。
「醜の美学」とは、19世紀末から20世紀初頭に生まれた考え方で、元々は「美」とは何かを考察する学問としての「美学」において、「美」と対極に位置する「醜」とは何かという考察において、「醜」もまた「美」の一種であるとした考え方である。
本来は学問としての「美学」のみに存在する考え方である。
故に、人間の美意識において「醜」とは、すなわち嫌悪の対象であって、そもそも人間には「醜」に対する欲求は存在しない。
では、何故に被虐美というものが存在するのか?
それは、相手を「醜」と位置づけることによって、「醜」の対極に位置する「美」、すなわち自分を「美」と位置づけるためである。

つまり、一般の人間にとって、被虐美とは嫌悪の対象である。
両者に共通するのは、同好者のみに美として認識されるという点である。

更に共通する点として、SMプレイが性風俗であるという前提による性的描写がある。
SMプレイとしての緊縛とは、強姦もしくは強制猥褻を目的として、相手が抵抗できないように拘束することである。
金銭や物品を奪う際に相手が抵抗できないように拘束したものを緊縛強盗というのと同じで、緊縛という場合には、拘束することが目的ではない。
そもそも、江戸時代以前には、拘束を目的とした捕縄術とは別で、主に刑罰としての殺傷を目的とした特殊な結び方を緊縛と呼んだのである。
つまり、江戸時代以前は刑罰を目的として、明治以降は犯罪を目的として、相手が抵抗できないようにすることを緊縛という。
故に、縄で縛るのが緊縛ではない。

緊縛美とは何か?
はっきり言ってしまえば、緊縛美というものは存在しない。
SMにおいて論じられる様々なSM論、SM観は、すべて性的虐待を正当化するためにのみ存在する。
緊縛美という言葉もまた、性的虐待、すなわち暴力を正当化するための口実にすぎない。
また、ごっこ遊びである性風俗におけるSMプレイにおいて、SM論やSM観を論じるのは無意味であるように、そこに美を論じることも空々しい話である。


ちなみに、江戸時代の縄師の場合、女性の美そのものを表現することが目的であり、結びとはそのための演出の一つ、縄はそのための小道具のひとつにすぎない。
また、性的欲求によるものではないから、性的描写もない。
ポルノとヌードの区別は過去に述べたが、同じように裸体を描いたとしても、性的な目的のものはポルノで、美そのものを表現しようとしたものをヌードという。
緊縛がSMプレイの一つである以上、そしてSMプレイが性風俗である以上、緊縛はどこまでいってもポルノで、ヌードにはならない。

現代でも、芸術か?猥褻か?という議論は絶えないが、猥褻が芸術と詐称することは、古代ギリシアの哲学をはじめ、数千年前から論じられていたことで、既に明瞭な答えがあるのに、それを知らずに議論しているというのは低次元な話である。

緊縛が、性的欲求のはけ口としての、すなわち性風俗としてのSMプレイのひとつとして行われている限り、それが芸術となることはなく、俗に言う猥褻図画の範疇からでることはない。

すなわち、緊縛は日本の伝統的な美ではない。

それが、女性の美そのものを表現しようとする縄師の縛りと混同されるのは甚だ迷惑な話である。
SM緊縛に「縄師」は存在しない。
それは、まさに猥褻が芸術を詐称するのと同じで、無知と未熟によるものと言わざるをえない。

2009年 謹賀新年

縄師 我流縛

SMの健全化について

そもそも一般的にSMと呼ばれているのは、性的虐待をイメージプレイとして行う性風俗である。
イメージプレイである以上、それは妄想の産物であって、現実には存在しない。
現実に存在するのはSMではなくDVである。

言い方を変えるなら、イメージプレイであるSMについて、心理学的または精神医学的な解説は不要である。
にも関わらず、それを必要とするのは、それがSMではなく、DVだからである。
DVだから、その暴力を正当化するものが必要になるのだ。
精神医学では、暴力の原因や責任を、攻撃の対象となる相手や他のものに転嫁することで、自己の暴力を正当化しようとする心理を「依存的攻撃性」すなわち「サディズム」という。

ちなみに、その転嫁の対象として、マルキ・ド・サド及びその作品をカルト・フィギュアとして、狂信的な関係を作っているのが、社会学的なサディズムである。
カルト・フィギュア、一般的にはカリスマと呼ばれる存在をつくりだして、マインド・コントロールする手法は、最近の社会では日常的に存在している。
社会問題となるカルト教団(集団)において、SM的な行為が見られるのは、暴力によるマインド・コントロールが最も簡単だからである。
私たちが問題視しているのも、多くのSM店がカルト的集団を形成している点にある。
サディズムとテロリズムは、基本的には同じ心理である。
攻撃の対象が個人のものをサディズムといい、攻撃の対象が国家や社会のものをテロリズムという。
カルト教団(集団)に反社会的な傾向が強くなるのはそのためである。
一般の人がおもしろがってドSだとかドMだとか言っているが、それがいつ反社会性へと変わるかわからない。
近年多くなっている、いわゆる自己中心的な犯罪がそれである。
そして、その残虐性は、カルト的なSMの延長線上にある。

それは、某カルト教団がメディアを通して拡大し、テロ集団へ変貌していった過程と同じである。
多くの人は忘れているかもしれないが、今でも某カルト教団のマインド・コントロールから開放されない信者が大勢いて活動を続けている。
カルト的なSMに関していえば、そこに集団としての統率がない分、いついかなる場所で誰が暴走するかわからないという点では、より大きな危険をはらんでいるとも言える。

いわゆるSMのプロ、正確には性風俗としてのSMプレイのプロは、全国に約三万人ほどいるが、そのほとんどが、SMに興味が無い人やむしろ嫌悪感を感じる人が抱いているSMのイメージやSMに関する知識と大差ないレベルである。
はっきり言ってしまえば、SMマニアの間で有名、カリスマと呼ばれる人でさえ、SMとDVの区別がわかっていないレベルというのが現実である。
そのレベルの人間が必ず言う台詞は「SMはDVじゃない」「SMは究極の愛情表現」など・・・。
そういう言葉が出たら、それはSMの言葉ではなくDVの加害者の言い訳である。

精神医学的なサディズムの原因は精神疾患である。
社会学的なサディズムは基本的には病気ではないが、ある意味、病気よりも怖い。
また解釈妄想症などに陥る場合もある。

精神医学的なマゾヒズムは自虐性だからSMとは全く関係ない。
社会学的なマゾヒズムは、社会学的なサディズムの一部、または精神医学的なサディズムに対する共依存症をいう。

よく、SMが一般に認知されるようになったという人がいるが、全く理解されていないし、むしろ誤解されている。
それが多くの犯罪の原因になっている。

SMのプロでさえ、それがDVであるという事実を知らない、もしくは知らないふりをしている。
だからこそ、必要なのは、一般にSMを理解してもらうことではなく、SMの世界の健全化なのである。

とはいったものの、サディズムは自分に都合の悪いことは無視するのが特徴の心理。
SMマニアを自称するサディズムは、単なる暴力的な人たちではないし、知識としては認識しているから、逆ギレすることもない代わりに、こうした指摘を受け入れることも、反論することもない。
その時は納得したような顔をして、次の瞬間には元通り・・・。

まさに「馬耳東風」
※春風が吹くと人はよろこぶが、馬は何の感動も示さないことから転じて、人からの意見や批評を、心に留めずに聞き流すこと。

そういう人たちに対して、私たちは空しさを感じることもあるが、それよりもむしろ憐れみを感じることのほうが多い。

赤縄を結ぶ/赤い糸の伝説

「運命の赤い縄(日本では糸)」とは、中国に発し、東アジアで広く信じられている人と人を結ぶ伝説である。

一般的には、『太平広記』に記載された奇談「定婚店」に由来する。
※『太平広記』は、977-978年にかけて編纂された現存する最古の中国小説といわれる。
※「定婚店」の出典は『続幽怪録』とされる。

いつか結ばれる男と女は、足首を見えない赤い縄で結ばれているとされる。
この赤い縄を司るのは「月老」という老人で、結婚や縁結びなどを司るとされ、仲人や結婚の仲立ちをする者を指す「月下老」や婚姻を意味する「赤縄を結ぶ」という成語が生まれた。
古くは五色の縄の伝説があったものと考えられており、赤縄の伝説だけが現在に至ったと考えられている。

朝鮮半島へ伝わったのが、李氏朝鮮(1392-1910年)のはじめといわれ、その後日本にも伝わった。
日本では、林道春(羅山 1583~1657)による訳本『怪談全書』によって一般に知られるようになったといわれる。
この時、足首の赤い縄は、日本では手の小指の赤い糸として広まった。

ところで、日本古来の「絆(きずな)」は、主に親子兄弟に用いるのが基本で、男女の場合には、一部特殊な例を除けば、一般的には婚姻関係にある男女の間で時間をかけて結ばれるものであるから、「絆」と「赤い糸」は異質である。
最近、「絆」という言葉がいろんな場面で使われているが、その意味からすれば、使うべき言葉は「縁(「えん」または「えにし」)」である。

「赤い縄」の伝説によれば、冥界によって決められた赤い縄で結ばれた男女は、他の人とは決して結ばれないということになっている。
逆に、赤い縄で結ばれた男女は、死以外には、どんな障害があっても結ばれるという。

江戸時代、男女の恋を意味する言葉は「浮気(艶気):うわき」である。
浮気は、別れること、結ばれないことを前提としていたから、赤い縄ではなく赤い糸になったと考えられる。
「情欲」と書いて「こい」と読ませたりもする。
「浮気」の反対語は「本気」ではなく「現実」で、婚姻には「現実の生活」という意味がある。
ちなみに、「不倫」とは正常な人間関係を壊す行為を意味する。

※この伝説に由来するわけではないが、「紅縄庵(くじょうあん)」の紅縄は赤縄のこと、。

現在の裁判制度

現在の裁判制度は、市民感覚からずれているという。

しかし、現在の日本の裁判制度は、法治国家の裁判としては極めて正常な制度である。

被害者や遺族の心情は十分に理解できるが、それに左右されるならば法治国家の裁判ではない。

その心情は、求刑を行う検察、検事が受け止めるべきもので、裁判官がそれに左右されてはならない。

その意味でいうなら、現在いわれているような裁判制度の問題点とは、裁判制度そのものよりも、検察、検事の立ち位置の問題なのだから、新たに導入された被害者参加制度で十分である。

裁判員制度に関して言えば、裁判に市民感覚として被害者や遺族の心情を反映させようとするなら、それはまるで中世ヨーロッパの魔女裁判である。

その心情とは、憎悪と殺意だから・・・。

近年、殺人事件の被害者遺族が、マスコミに登場して、判決への不満や死刑を望む発言をすることが多い。

最近でも、夫を殺害された母親がテレビに出演して、子供の将来のためといいながら、死刑を望む発言をしている。

しかし、憎悪や殺意にみちた母親の姿は、子供の目にはどう映っているのかと考えた時、むしろその方がその子の将来に不安を感じる。

被害者や遺族の心のケア、特にそうした憎悪や殺意をいかに静めるかが重要になるだろう。

日本人は、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉に代表されるように、昔から復讐を認めていない。

江戸時代の仇討ちにしても、復讐を目的としたものではない。

武士にとって、自刃は名誉を守る(または名誉を回復する)手段であるが、他人の手で殺される(処刑も含めて)ことは家の恥とされた。
仇討ちは、家名(家または一族の名誉)回復のためのもので、復讐のための仇討ちは認められない。
だから、仇討ちは家督相続予定者(男子、もしくは弟など)のみにしか許されない。
その点が、復讐を目的として誰がやってもいい西洋の敵討ちとは違う。

有名な忠臣蔵にしても、物語としては最後は全員切腹するわけだが、実際には、仇討ちではなく、無許可の復讐だから、切腹は許されず、処刑されたという説もある。


被害者や遺族が死刑を望む心情は、加害者が殺人に至る心情と同じ、自己中心的な発想によるものである。

金銭目的、怨恨、通り魔、などの殺人を犯した人間、というよりも、殺人に限ったことではなく、犯罪の出発点は必ずなんらかの被害者意識がある。

条理、不条理に関わらず・・・。


ちなみに、裁判員制度は、裁判に市民感覚を反映させる制度にはならないだろう。
むしろ、裁判員に選ばれた人がまっとうな人なら、法治国家の国民として、ずれた市民感覚を認識する制度になるだろう。

先日、裁判員候補に選ばれた人が法律に反して記者会見を開いたが、法律に反した行動では、内容がいくら正当な主張であっても認められない。
何故なら、そのような行為のことをテロというからである。
銃や爆弾をもって行われるものだけがテロではないのだ。

SMとは(語源)

SMという言葉が使われるようになったのは、1920年代、ヨーロッパの精神医学において、性風俗における心理の研究に関してであった。
いわゆる嗜虐プレイの精神医学的考察の過程で、それをセクシャル・マゾヒスティック・プレイ、略してSMプレイと呼んだのが始まりとされる。

サディズムとマゾヒズムという言葉は、既に学術用語として使われていたが、精神医学的には両者は全く無関係の独立した精神性として認識される。
つまり、依存的攻撃性という犯罪心理としてのサディズムと、自虐性としてのマゾヒズムは、対になるものではないということである。

そもそも、サディズムは特に性犯罪者に顕著な特徴ではあるが、暴力的な犯罪に全般において見られる心理である。
また、マゾヒズムが性的な心理とされるのは、語源となったマゾッホの小説の影響である。
精神医学上のマゾヒズムは、あくまで自虐性である。
その作品については、マルキ・ド・サドの作品に影響を受けた結果として、第三者からみれば被虐性ととれる内容があることは確かだが、マゾッホ本人には、性的な自虐性はみられるが、いわゆる被虐性といえるような言動の記録は無い。

サディズムとは、虐待の加害者に見られる自己正当化の心理を指し、現在では主にドメスティック・バイオレンスにおける加害者の心理として扱われる。
この場合、一般にマゾヒズムと誤解されることが多い、虐待を受け入れてしまう被害者の心理は共依存であるから、サディズムと対になるのはマゾヒズムではなく共依存症なのである。

また社会学的なサディズムとは、サドの作品の発表以降、サド及びサド作品をカルト・フィギュアとする狂信を指す。
現在のいわゆるSMマニアとは、99.99%以上がこれに属するといわれ、この場合には、いわゆるSもMもサディストと定義される。
これは、精神医学的には解釈妄想症に分類される。
Sを加虐性、Mを被虐性とするのは、社会学的サディズムに属するSMマニアによるもので、SMをサド-マゾというのも同じである。

ちなみに、社会学的サディズムでは、某カルト教団の事件で話題となったマインド・コントロールの手法が用いられる。
SMプレイは、きわめて個人的な趣味と考えられがちだが、実はカルト的な集団に属しているのと同様の形態があり、自分からそこを離れることはほとんど皆無で、そこから離すためには、某カルト教団の脱退信者に行われたような、環境を整えた上での専門的かつ長期的なカウンセリングの手法が必要である。
ただし、日本でそれができる専門家を私は知らない。
SM系といわれる店でSMマニア相手にこういう話をしても、その時は納得して聞いているが、馬の耳に念仏、あっという間に元に戻ってしまう。
ちなみに、ドメスティック・バイオレンスの加害者や被害者にも同じようなことがいえる。
そのままにしておくと、70代、80代になってもそのままで、SMマニアの間で先生と呼ばれている人は珍しくない。


本題のSMプレイとは、マゾヒズムの同一視によって、相互に性的な従順な役割(ロール)を生じると考えられ、SMプレイとは支配と隷属、加虐と被虐という役割を相互に与えることで行われる性的なロールプレイ(イメージプレイと考えてもよい)をいう。
ただし、これは社会学的なサディズムがベースにあってのことで、それが無い場合はドメスティック・バイオレンスそのものとなる。
しかも、性風俗という環境に限定される。

社会学的なサディズムの発生以前、またはサドの時代(フランス革命期)以前のSMとは、純粋な奉仕と被奉仕の関係をいい、16世紀のフランスの娼館が発祥とされる性風俗としてのSMプレイも、その延長だったといわれている。

「恋愛」という熟語

「恋」と「愛」は類義語と思われがちだが、「愛」とはそのものズバリ「愛する」ことであるが、「恋」とは「愛されたい」という欲求を意味するから、両者は、いわゆる反対語というのとはニュアンスが異なるが、その意味において対極的な言葉であることがわかる。

ちょっとした違いのようだが、全く別物というくらい違う。
「真偽」や「善悪」などのような反対の意味を持つ語で構成された熟語と同じように…。

「恋」と「愛」の違いは子供には難しい。
年齢を重ねれば、意味の違いを理解することはできる。
しかし、その実践となると、高度な哲学的な素養が関わってくるから、年齢や経験でどうこうなるものでもないようだ。

「I LoveYou」は「私はあなたを愛している」という意味ではない。
「私はあなたに愛されたい」と訳すのが正しいようだ。
英語(厳密には米語)の「Love」は、男女の関係に関して言えば「恋」のみを意味し、更に言えば肉欲に限定して使われるから、「私はあなたで性欲を満たす」という解釈をしたほうが勘違いしないですむかも・・・。
ヨーロッパ系の言語では、ひとつの単語が全く違う意味を持つことは珍しくない。

浮気や不倫を繰り返す人は、精神疾患が原因の可能性がある。
以前、某タレントが「不倫は文化」だといったが、浮気や不倫は治療が必要な病気。
ちなみに、「不倫」は正常な人間関係が保てない、社会性の欠如という意味。
某タレントの発言も、そうした精神疾患に由来する症状のひとつ。
更に言えば、浮気や不倫は、DV防止法の定める加害行為である。

つまり、浮気や不倫は、男女間の道義的な問題ではなく、精神医学上の病気であり、法律上の犯罪行為なのである。

ドSとドMの心理学

プロ、アマ、ベテラン、ビギナー、に関係なく、その人のやっていることがSMか?DVか?を判断するのは簡単だ。
SMはDVだと認識した上で、明確にプレイとしてやっているのがSM。
SMはDVとは違うと言っている人がやっているのがDV。
SMをやっている人にサディストはいない。
だって、精神医学上のサディズムは犯罪心理で、特にDVの加害者や性犯罪者などの特徴的な心理のこと。
マゾヒストの場合は、ほとんどが共依存症と考えていい。
およそ一般的には、実際に自傷などの自虐的な行為を行う場合に、それをマゾヒズムとは呼ばない。
本当は、それこそが精神医学的なマゾヒズムなのだが・・・。
ちなみに、マゾヒズムのベースとなっているのはサディズムで、サディズムによる攻撃性が自分自身に向けられるのがマゾヒズム。

ところで、最近は一般の人が自分はドSだとか、ドMだとか言っているけど、この場合のドSは、暴力的な性格を指し、ドSと称することで、自分の暴力を正当化しているのだ。
自分の暴力を正当化してしまっているので、暴力に罪の意識も無く、無意識に他人を傷つけてもまったく気がつかない。
一方、自分をドMだと言っている場合、基本的にはただの妄想癖だと考えていいが、共依存症になると、暴力に遭いながら、本人にはその自覚が無いからとても危険である。
先に述べたが、マゾヒズムというのは、自己のサディズムが自分自身に向かっているものだから、何かのきっかけでその攻撃が自分以外に向かうことがある。
しかも強い妄想に支配されているから、まかり間違うと、殺すか殺されるかという状況までいってしまう。
ドSにしてもドMにしても、結局のところ、精神的に子供なのだ。
ちなみに、日本人の場合、心理面などの内的要因からそうなることは少ない。
誤った情報などの外的要因によるものがほとんどを占めている。

最初の話に戻るが、現在は、DVの加害者や無自覚な被害者がSMについて語っているのがほとんどだ。
それは精神医学でいう解釈妄想症の典型で、同病相哀れむって感じで、お互いにそれを肯定しあうし、否定的な意見は記憶から抹消してしまう。

早い話、こうして書いている内容も、彼らにとっては他人事なのである。

縄師の縛りとSMの緊縛

縄師の縛りは、女性美を表現する上での演出に過ぎないから、縛るという行為自体が目的であるのに対し、SMにおける緊縛の場合、縛るという行為では、性的虐待や強制猥褻という目的があって、それを行うために相手を拘束するものである。
両者は、縛るという行為そのものは同じように見えても、その区別は素人でも簡単にできるほど異質なものである。

ヨーロッパにおいて、性風俗化する以前のSMは、奉仕と被奉仕の関係を指しており、性風俗化によって作られた支配と隷属の関係とは異質なものであるり、そもそも肉体的な苦痛を伴うようになるのは、フランス革命に向かう社会的な混乱の影響が大きい。
日本においても、幕末の混乱期において、そうした傾向が見られたことはよく知られている。
余談ではあるが、経済的混乱がみられる現代において、性的犯罪や暴力的行為が増加しているのは当然ともいえる。

SMにおけるカルトフィギュアとされるマルキ・ド・サドの作品にしても、フランス革命前後の社会的な混乱期に好まれた暴力的な表現の一つに過ぎない。
日本で言えば、幕末に芝居や歌舞伎などにおいて好まれた残酷物とよばれる作品群があり、そこから生まれた絵師、月岡芳年の存在があげられる。

こうした作品群は、文化的退廃により、道徳観念が希薄になると脚光を浴び、それを模倣するのは精神的に未熟な大衆である。
精神的に未熟な者が模倣するようになると、それは次第にエスカレートして短絡的な暴力などの犯罪へとつながる。
日本の第一期SMブームとされる大正末期は、文化的な退廃はみられたが、大衆の道徳観念はそれほど希薄にならなかった。
第二期SMブームとされるのは戦後から高度成長期で、ショービジネスとしての展開期であった。
第三期SMブームとされる1980年前後は、どちらかといえば風営法からの脱法性風俗としてSMクラブ乱立期であった。
現在は、日本における第四期のSMブームと位置づけられるが、風営法の規制対象となったことで、第三期で乱立したSMクラブの関係者が、SMバーやショーパブなどの営業形態でカルト的集団を形成するようになったものである。
その姿は、某カルト教団の初期の姿を見ているかのようだ。
ということで、最近はそうしたSM店の摘発が多くなっている。

同じようにSMクラブというが、第二期のものは同好会的なもので、第三期のは個室性風俗的なもので、SMに関する考え方もプレイについても全く異質なものである。
また、いわゆる女王様も、第二期のものはヨーロッパの古典的奉仕と被奉仕の関係によるものだが、第三期以降は、暴力による支配と隷属の関係と、やはり異質なものである。

SM緊縛は、第一期の伊藤晴雨に始まり、第二期の長田英吉氏や明智伝鬼氏などの緊縛師により広まる。

ちなみに、私が縛りに興味をもったきっかけは第二期のものだったが、それ以降は全く独自に展開してきており、交流のあった店はヨーロッパの伝統的SMの考え方をベースとし、同世代の第三期世代との交流があまり無かったことで、幸いカルト的な集団に取り込まれずに済んだ。
現在のSMのあり方を完全否定するつもりはないが、それが健全なSMとは言えないことは間違いない。
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