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SMの健全化について

そもそも一般的にSMと呼ばれているのは、性的虐待をイメージプレイとして行う性風俗である。
イメージプレイである以上、それは妄想の産物であって、現実には存在しない。
現実に存在するのはSMではなくDVである。

言い方を変えるなら、イメージプレイであるSMについて、心理学的または精神医学的な解説は不要である。
にも関わらず、それを必要とするのは、それがSMではなく、DVだからである。
DVだから、その暴力を正当化するものが必要になるのだ。
精神医学では、暴力の原因や責任を、攻撃の対象となる相手や他のものに転嫁することで、自己の暴力を正当化しようとする心理を「依存的攻撃性」すなわち「サディズム」という。

ちなみに、その転嫁の対象として、マルキ・ド・サド及びその作品をカルト・フィギュアとして、狂信的な関係を作っているのが、社会学的なサディズムである。
カルト・フィギュア、一般的にはカリスマと呼ばれる存在をつくりだして、マインド・コントロールする手法は、最近の社会では日常的に存在している。
社会問題となるカルト教団(集団)において、SM的な行為が見られるのは、暴力によるマインド・コントロールが最も簡単だからである。
私たちが問題視しているのも、多くのSM店がカルト的集団を形成している点にある。
サディズムとテロリズムは、基本的には同じ心理である。
攻撃の対象が個人のものをサディズムといい、攻撃の対象が国家や社会のものをテロリズムという。
カルト教団(集団)に反社会的な傾向が強くなるのはそのためである。
一般の人がおもしろがってドSだとかドMだとか言っているが、それがいつ反社会性へと変わるかわからない。
近年多くなっている、いわゆる自己中心的な犯罪がそれである。
そして、その残虐性は、カルト的なSMの延長線上にある。

それは、某カルト教団がメディアを通して拡大し、テロ集団へ変貌していった過程と同じである。
多くの人は忘れているかもしれないが、今でも某カルト教団のマインド・コントロールから開放されない信者が大勢いて活動を続けている。
カルト的なSMに関していえば、そこに集団としての統率がない分、いついかなる場所で誰が暴走するかわからないという点では、より大きな危険をはらんでいるとも言える。

いわゆるSMのプロ、正確には性風俗としてのSMプレイのプロは、全国に約三万人ほどいるが、そのほとんどが、SMに興味が無い人やむしろ嫌悪感を感じる人が抱いているSMのイメージやSMに関する知識と大差ないレベルである。
はっきり言ってしまえば、SMマニアの間で有名、カリスマと呼ばれる人でさえ、SMとDVの区別がわかっていないレベルというのが現実である。
そのレベルの人間が必ず言う台詞は「SMはDVじゃない」「SMは究極の愛情表現」など・・・。
そういう言葉が出たら、それはSMの言葉ではなくDVの加害者の言い訳である。

精神医学的なサディズムの原因は精神疾患である。
社会学的なサディズムは基本的には病気ではないが、ある意味、病気よりも怖い。
また解釈妄想症などに陥る場合もある。

精神医学的なマゾヒズムは自虐性だからSMとは全く関係ない。
社会学的なマゾヒズムは、社会学的なサディズムの一部、または精神医学的なサディズムに対する共依存症をいう。

よく、SMが一般に認知されるようになったという人がいるが、全く理解されていないし、むしろ誤解されている。
それが多くの犯罪の原因になっている。

SMのプロでさえ、それがDVであるという事実を知らない、もしくは知らないふりをしている。
だからこそ、必要なのは、一般にSMを理解してもらうことではなく、SMの世界の健全化なのである。

とはいったものの、サディズムは自分に都合の悪いことは無視するのが特徴の心理。
SMマニアを自称するサディズムは、単なる暴力的な人たちではないし、知識としては認識しているから、逆ギレすることもない代わりに、こうした指摘を受け入れることも、反論することもない。
その時は納得したような顔をして、次の瞬間には元通り・・・。

まさに「馬耳東風」
※春風が吹くと人はよろこぶが、馬は何の感動も示さないことから転じて、人からの意見や批評を、心に留めずに聞き流すこと。

そういう人たちに対して、私たちは空しさを感じることもあるが、それよりもむしろ憐れみを感じることのほうが多い。

現在の裁判制度

現在の裁判制度は、市民感覚からずれているという。

しかし、現在の日本の裁判制度は、法治国家の裁判としては極めて正常な制度である。

被害者や遺族の心情は十分に理解できるが、それに左右されるならば法治国家の裁判ではない。

その心情は、求刑を行う検察、検事が受け止めるべきもので、裁判官がそれに左右されてはならない。

その意味でいうなら、現在いわれているような裁判制度の問題点とは、裁判制度そのものよりも、検察、検事の立ち位置の問題なのだから、新たに導入された被害者参加制度で十分である。

裁判員制度に関して言えば、裁判に市民感覚として被害者や遺族の心情を反映させようとするなら、それはまるで中世ヨーロッパの魔女裁判である。

その心情とは、憎悪と殺意だから・・・。

近年、殺人事件の被害者遺族が、マスコミに登場して、判決への不満や死刑を望む発言をすることが多い。

最近でも、夫を殺害された母親がテレビに出演して、子供の将来のためといいながら、死刑を望む発言をしている。

しかし、憎悪や殺意にみちた母親の姿は、子供の目にはどう映っているのかと考えた時、むしろその方がその子の将来に不安を感じる。

被害者や遺族の心のケア、特にそうした憎悪や殺意をいかに静めるかが重要になるだろう。

日本人は、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉に代表されるように、昔から復讐を認めていない。

江戸時代の仇討ちにしても、復讐を目的としたものではない。

武士にとって、自刃は名誉を守る(または名誉を回復する)手段であるが、他人の手で殺される(処刑も含めて)ことは家の恥とされた。
仇討ちは、家名(家または一族の名誉)回復のためのもので、復讐のための仇討ちは認められない。
だから、仇討ちは家督相続予定者(男子、もしくは弟など)のみにしか許されない。
その点が、復讐を目的として誰がやってもいい西洋の敵討ちとは違う。

有名な忠臣蔵にしても、物語としては最後は全員切腹するわけだが、実際には、仇討ちではなく、無許可の復讐だから、切腹は許されず、処刑されたという説もある。


被害者や遺族が死刑を望む心情は、加害者が殺人に至る心情と同じ、自己中心的な発想によるものである。

金銭目的、怨恨、通り魔、などの殺人を犯した人間、というよりも、殺人に限ったことではなく、犯罪の出発点は必ずなんらかの被害者意識がある。

条理、不条理に関わらず・・・。


ちなみに、裁判員制度は、裁判に市民感覚を反映させる制度にはならないだろう。
むしろ、裁判員に選ばれた人がまっとうな人なら、法治国家の国民として、ずれた市民感覚を認識する制度になるだろう。

先日、裁判員候補に選ばれた人が法律に反して記者会見を開いたが、法律に反した行動では、内容がいくら正当な主張であっても認められない。
何故なら、そのような行為のことをテロというからである。
銃や爆弾をもって行われるものだけがテロではないのだ。

飲酒運転撲滅が叫ばれている昨今…

飲酒運転撲滅が叫ばれている昨今…
無くならない飲酒運転…、そして事故。
しかし、飲酒運転は減少しているのは確かである。
その一方で、飲酒が原因の死傷者数はほとんど変わらない。
飲酒暴力が増加しているからだ。
金銭目的や怨恨以外の、偶発的暴力の六割以上で、加害者か被害者のいずれか、または両方が飲酒していたといわれる。
また、セクシャル・ハラスメントの七割以上が酒の席で発生しているといわれる。
公式の数字に挙がってくるのは、刑事事件に発展したものだけで、それは全体の三割程度だといわれていて、それでも、飲酒運転による事故発生件数よりも、飲酒暴力事件の件数の方が多いといわれているにも関わらず、以前、鉄道会社がまとめた駅員に対する暴力に関するニュースでわずかに取りあげられたことはあったが、飲酒暴力撲滅とは誰も言わない。
煙草は健康に悪いというが、きちんと分煙してマナーを守れば、煙草を吸いすぎて人を殺したり怪我をさせたという話は聞かない。
飲酒が直接的または間接的原因で健康を害する人は多いし、酒を飲みすぎて人を殺したり怪我をさせる人は大勢いる。

ちなみに、三人の子供が亡くなった例の事故の後、CMを自粛したアルコールメーカーがあるか?アルコールの販売を自粛した飲食店があったか?
裁判では、危険運転か否かが問題にされているが、個人的な意見を言うなら、酒気帯びを廃止してすべて飲酒運転として扱い、飲酒運転による事故は、道交法の危険運転致死傷罪ではなく、刑法の殺人罪や傷害罪で裁かれるべきだろう。

取り調べ監督制度

警察官による不当な取り調べをチェックする取り調べ監督制度が、1日から全国の40の警察で試験的に始まる。
警察庁では、問題点を洗い出し、来年4月の本格実施に備える。
取り調べの監督制度は、捜査部門以外の「監督官」と呼ばれる警察官が取り調べの状況をチェックするもの。
富山県や鹿児島県で不当な取り調べが相次いだことを受けて、すでに試験的に導入している7つの警察本部を除く全国の40の警察で1日から始まる。
この制度で「監督官」は取調室の外から中が透けて見える鏡をのぞき、取り調べにあたる捜査員が容疑者の体に接触したり、不安を覚えさせるような言動を取ったりしていないかなどをチェックする。
問題が見つかった場合は、取り調べをやめるよう求めることができるほか、問題があると疑われる際には取り調べの状況について捜査員に説明させることができる。
試験運用では「監督官」の体制や方法が十分かどうか確認するということで、警察庁は10月から2か月間かけて全国の警察に聞き取りをして問題点を洗い出し、来年4月の本格実施に備えることにしている。
<NHKニュースより>

1742年に公事方御定書(くじかたおさだめがき)が制定されてからは笞打(むちうち)・石抱き・海老責(えびぜめ)・釣責の四つが拷問として行われた。
その中でも笞打・石抱は「牢問」、海老責・釣責は「(狭義の)拷問」というように区別して呼ばれ、その危険性の高さゆえ、「(狭義の)拷問」は「牢問」よりも厳しい要件が定められていた。
拷問が行われるのは、殺人、放火など死罪となる重犯罪の被疑者に限られ、その上共犯者の自白や証拠品の確保などによって犯罪が立証されていることが必須であり、なおかつ、拷問の実施には老中の許可が必要だった。
町奉行所の役人が独断で拷問を行うことは、法制度上では禁止されていた。
江戸幕府最後の南町奉行所で与力だった佐久間長敬の書き残した文章によれば、拷問を使わずに犯人から自白を引き出す吟味役を有能とする風潮が存在していた。
これは拷問しにくい環境が整っていたことを示している。
但し、現代のような科学捜査の無い当時の犯罪捜査は自白中心だったことから拷問を廃止するのは不可能だった。
無論、拷問する側も拷問の実施要件を厳格に定めていたことから自白中心主義の問題には気づいていたと思われる。
明治以降の警察制度における物的証拠よりも自白を重視する自白中心主義は、江戸時代の自白中心主義とは根本的に異なる点に注意しなければならない。
特に科学捜査が発達した現代警察において、自白中心主義が存在すること自体がナンセンスなのである。

江戸時代の町奉行所での取り調べは、吟味方与力とその配下の同心が行なわれるが、その際には吟味方以外の役人が立ち会うことになっており、拷問を行なう際には特に厳格に適用されていた。
これは、罪の容疑が濃厚で自白しない罪人に関して、刑部省の役人の立ち会いのもと拷問が行なわれた律令の制度に由来する。
つまり、今回実施される取り調べ監督制度は、千年の歴史がありながら、近代警察が廃止した伝統的な制度をそのまま復活させたものなのである。

AVに関する誤った認識の問題

日本では売春防止法第3条により売春は禁止されている。
『売春』とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交すること(同法2条)
但し、対価の下に性交渉を持つ場合でも、それが特定の相手なら罰せられない。
また、売春の行為自体は、18歳未満の者との間で行われる児童売春を除き、刑事処分の対象とはならない。
同法が刑事処分の対象としているのは、
売春勧誘(同法5条1号)
売春の周旋(同法6条1項)
売春をさせる契約(同法10条1項)
売春をさせる業(同法12条)
などの売春を「助長」する行為である。
売春行為そのものを刑事処分の対象としないのは、性交を伴う交際の相手方ないしは交際を望む相手方に対するプレゼントや食事の提供は日常しばしば見られる行為であり、それ自体を処分の対象とすると、個人の性生活を極度に制限してしまう恐れがあると考えられるからである。

実際に性交渉を伴うAVにおいて、出演料は「対償」「対価」にあたり、いわゆるAV男優は、ここでいう特定の相手にはあたらないから、売春防止法が定義する「売春」となる。
つまり、いわゆるAV女優以外の関係者は刑事処分の対象となる。

そもそも、刑法第175条(わいせつ物頒布等)により、日本ではわいせつ物を頒布できないから、名目上はポルノ作品は流通してないことになっている。
すなわち、AVは制作者サイドの倫理審査団体の自主規制を前提として黙認されてきただけで、非合法なものである。
※刑法上の規制対象となる「わいせつ物」とは、徒に性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものである。

AVについて、あまりに長い間黙認されてきた為、それが売春にあたるという事実や、それ自体が非合法であるという事実を、社会全体が忘れてしまっている。
それ自体が一つの社会問題であり、間違いなく性犯罪など様々な社会問題の原因となっている。

また、AVの撮影では、両者の合意を取り付けてあるので強制猥褻罪や強姦罪が適応されることはないというが、まず、不法行為における合意は法律的に無効である。
「強制猥褻罪」や「強姦罪」は親告罪で、被害者が告訴が必要であるが、加害者が複数の場合には親告罪ではない。
AVでは、加害者が複数であり、物的証拠が揃っているので、犯罪としては摘発が極めて容易である。
時効は7年、過去に遡って確実な立件が可能であり、「集団強姦罪」の場合、判例では懲役4~20年となっている。
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