FC2ブログ
2017 051234567891011121314151617181920212223242526272829302017 07

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「恋愛」という熟語

「恋」と「愛」は類義語と思われがちだが、「愛」とはそのものズバリ「愛する」ことであるが、「恋」とは「愛されたい」という欲求を意味するから、両者は、いわゆる反対語というのとはニュアンスが異なるが、その意味において対極的な言葉であることがわかる。

ちょっとした違いのようだが、全く別物というくらい違う。
「真偽」や「善悪」などのような反対の意味を持つ語で構成された熟語と同じように…。

「恋」と「愛」の違いは子供には難しい。
年齢を重ねれば、意味の違いを理解することはできる。
しかし、その実践となると、高度な哲学的な素養が関わってくるから、年齢や経験でどうこうなるものでもないようだ。

「I LoveYou」は「私はあなたを愛している」という意味ではない。
「私はあなたに愛されたい」と訳すのが正しいようだ。
英語(厳密には米語)の「Love」は、男女の関係に関して言えば「恋」のみを意味し、更に言えば肉欲に限定して使われるから、「私はあなたで性欲を満たす」という解釈をしたほうが勘違いしないですむかも・・・。
ヨーロッパ系の言語では、ひとつの単語が全く違う意味を持つことは珍しくない。

浮気や不倫を繰り返す人は、精神疾患が原因の可能性がある。
以前、某タレントが「不倫は文化」だといったが、浮気や不倫は治療が必要な病気。
ちなみに、「不倫」は正常な人間関係が保てない、社会性の欠如という意味。
某タレントの発言も、そうした精神疾患に由来する症状のひとつ。
更に言えば、浮気や不倫は、DV防止法の定める加害行為である。

つまり、浮気や不倫は、男女間の道義的な問題ではなく、精神医学上の病気であり、法律上の犯罪行為なのである。

縄師の縛りとSMの緊縛

縄師の縛りは、女性美を表現する上での演出に過ぎないから、縛るという行為自体が目的であるのに対し、SMにおける緊縛の場合、縛るという行為では、性的虐待や強制猥褻という目的があって、それを行うために相手を拘束するものである。
両者は、縛るという行為そのものは同じように見えても、その区別は素人でも簡単にできるほど異質なものである。

ヨーロッパにおいて、性風俗化する以前のSMは、奉仕と被奉仕の関係を指しており、性風俗化によって作られた支配と隷属の関係とは異質なものであるり、そもそも肉体的な苦痛を伴うようになるのは、フランス革命に向かう社会的な混乱の影響が大きい。
日本においても、幕末の混乱期において、そうした傾向が見られたことはよく知られている。
余談ではあるが、経済的混乱がみられる現代において、性的犯罪や暴力的行為が増加しているのは当然ともいえる。

SMにおけるカルトフィギュアとされるマルキ・ド・サドの作品にしても、フランス革命前後の社会的な混乱期に好まれた暴力的な表現の一つに過ぎない。
日本で言えば、幕末に芝居や歌舞伎などにおいて好まれた残酷物とよばれる作品群があり、そこから生まれた絵師、月岡芳年の存在があげられる。

こうした作品群は、文化的退廃により、道徳観念が希薄になると脚光を浴び、それを模倣するのは精神的に未熟な大衆である。
精神的に未熟な者が模倣するようになると、それは次第にエスカレートして短絡的な暴力などの犯罪へとつながる。
日本の第一期SMブームとされる大正末期は、文化的な退廃はみられたが、大衆の道徳観念はそれほど希薄にならなかった。
第二期SMブームとされるのは戦後から高度成長期で、ショービジネスとしての展開期であった。
第三期SMブームとされる1980年前後は、どちらかといえば風営法からの脱法性風俗としてSMクラブ乱立期であった。
現在は、日本における第四期のSMブームと位置づけられるが、風営法の規制対象となったことで、第三期で乱立したSMクラブの関係者が、SMバーやショーパブなどの営業形態でカルト的集団を形成するようになったものである。
その姿は、某カルト教団の初期の姿を見ているかのようだ。
ということで、最近はそうしたSM店の摘発が多くなっている。

同じようにSMクラブというが、第二期のものは同好会的なもので、第三期のは個室性風俗的なもので、SMに関する考え方もプレイについても全く異質なものである。
また、いわゆる女王様も、第二期のものはヨーロッパの古典的奉仕と被奉仕の関係によるものだが、第三期以降は、暴力による支配と隷属の関係と、やはり異質なものである。

SM緊縛は、第一期の伊藤晴雨に始まり、第二期の長田英吉氏や明智伝鬼氏などの緊縛師により広まる。

ちなみに、私が縛りに興味をもったきっかけは第二期のものだったが、それ以降は全く独自に展開してきており、交流のあった店はヨーロッパの伝統的SMの考え方をベースとし、同世代の第三期世代との交流があまり無かったことで、幸いカルト的な集団に取り込まれずに済んだ。
現在のSMのあり方を完全否定するつもりはないが、それが健全なSMとは言えないことは間違いない。

阿房と莫迦

●阿呆(あほう)、または阿房(あほう)。

「呆」は、おろかなこと。ぼんやりしていること。あきれること。の意。
「房」は、いわゆる太刀持ち(大名以下の者に刀を持ってついてまわる者)で、剃髪していたことから坊と呼ばれていたものが転じたといわれる。
人から指示されないと行動できない。また、それ以外に能がないという意味で使われる。
※「阿」は、人を呼ぶときに親しみを込めて冠する語。

●莫迦(ばか)、馬鹿(ばか)は当て字。

取るに足らないつまらないこと。無益なこと。役に立たないこと。愚者。の意。
※梵語の慕何(moha)、無知の意が語源といわれる。
この場合の無知は、道徳、社会的常識の欠如をいう。
そこから、人の道に外れた行ないをする者、した者に対して、人ではないという意味で「馬鹿」の字を当てたといわれる。


「親ばか」という言葉があるが、あきれるほど子供を溺愛する親という意味で、阿呆である。
それが過ぎて、社会的常識を欠いた行動をする「モンスター・ベアレント」を「馬鹿親」という。

浮気と不倫の違い

江戸時代、「恋」のことを「浮気・艶気(うわき)」といった。
また、「浮気・艶気」=「好色」の意味で、「情欲」と書いて「こい」と読ませたりもした。
そして、「浮気・艶気」の反対語は「本気」ではなく「現実」である。
つまり、「恋」=「浮気・艶気」=「非現実」=「虚構(きょこう)」であり、「別れが訪れることを前提として肉欲に耽ること」という意味。
ちなみに、恋愛において「本気」の反対語は「遊興(ゆうきょう)」とされる。
※「遊興」とは、遊びに興じること、面白く遊ぶこと。


「倫理」とは、人倫のみち。道徳の規範となる原理。
そもそも、「倫」は、仲間や類(たぐい)の意で、人間関係の秩序を意味する。
「不倫」とは、もともとは正常な人間関係を築けない人を指す言葉で、そこから転じて人としての道に反する行為、社会から逸脱した行為を指すようになった。
※「倫理」とは、道徳の規範となる原理であるから、「倫理」が欠如しているということは、道徳という観念そのものが存在しないことを意味する。


「浮気」とは、本気ではない「遊興」をいう。
「不倫」とは、恋愛感情を伴わない肉体関係をいう。

粋でいなせな…、の「いなせ」について

「ボラ」は、大きくなるにつれて呼び名が変わる出世魚(関東-オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド )で、様々な言葉の語源となった。

「オボコ」は、子供などの幼い様子や、可愛いことを表す「おぼこい」の語源。
「イナ」は、若い衆の髷の青々とした剃り跡をイナの青灰色でざらついた背中に見立て、「いなせ」の語源とも言われる。
若い衆が粋に見せるために跳ね上げた髷の形をイナの背びれの形に例え「鯔背銀杏(いなせいちょう)」と呼んだという説もある。
「トド」は、「これ以上大きくならない」ことから「とどのつまり」の語源となった。

江戸時代の「粋(いき)」を大人の美学とするならば、「鯔背(いなせ)」は、大人(一人前)になる一歩手前の若い衆が意気がって(大人ぶって)「粋」に見せようとする様子をいう。
最近は、「粋」と「いなせ」が混同されることが多い。
たとえば、「粋でいなせな…」という表現は、個人ではなく、様々な年代を含む集団に対して使う言葉であり、「粋」と「いなせ」は同じではない。

決して断ち切ることができない関係

[絆し(ほだし)]
馬の脚などをつなぐ縄
足かせや手かせ
自由を束縛するもの

[絆(きずな)]
馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱
断つにしのびない恩愛、離れがたい情実
ほだし・係累・繋縛
                -広辞苑-

動物をつないでおく縄が、人の心のつながりに使われるようになる過程には、まず、動物と人間の関係に由来する。
日本において、馬・犬・鷹などは、食用としてではなく、人間と共に働く動物であり、ほとんどの場合、それらは死ぬまで家族同然に扱われる。

人間関係を指す「絆し」という言葉は、「古今和歌集」にもみられるが、庶民が好んで使うようになったのは江戸時代といわれている。
「絆」「絆し」とは、親や兄弟など、自分の意志では断ち切れない関係(血縁など)、死後も続く関係において用いられる。
例えば、親兄弟と絶交したとしても、血のつながりを消すことはできない。
夫婦の場合、生きている間には使われない。
『心中尽く(しんじゅうずく)』相手への信義、愛情を貫くこと。
互いに「心中尽」した結果を「絆」という。

永遠に切れない関係にのみ使われる言葉である。

それは、多くの現代人にとって、「絆」「絆し」は自由を束縛するわずらわしい人間関係でしかない。
にも関わらず、多くのメディアで「絆」という言葉が使われる。
人間同士の関係が希薄になっている現代社会における「絆」は、縄や綱ではなく、切りたい時にいつでも切れるような糸一本のつながりを意味しているように思える。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。