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SMの定義

 1999年、世界保健機関(WHO)の総会において、「健康とは、身体的、精神的、霊的、社会的に、完全に良好な動的状態であり、単に病気あるいは虚弱でない、ということではない。
(Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease of infirmity.)」と定義した。
 人が人の健康を害することを虐待(暴力)といい、いかなる虐待(暴力)も正当化されることはない。

 SMとは、性倒錯の性行動を、特定の人物との間での合意の上で、敢えて擬似的に行なう性的なイメージプレイのことである。
 これは、虐待(暴力)の根絶を目的とする国際的な活動において、許容されるSMの定義であるが、SMにおける行為はあくまでも虐待(暴力)であり、それを正当化するものではない。

 合意が成立するためには、意思能力が必要であるが、意思能力がある者とは、心身共に健康な成人であり、未成年者・知的障害者・精神障害者・認知症の者には意思能力がないとされる。
 睡眠・飲酒酩酊のほか、心神喪失や心神耗弱においても意思能力は認められない。
 合意が出来るのは心身共に健康な成人同士であり、意思能力のある者とない者との合意は成立しない。
 また、心理的・物理的に抵抗ができない状態を抗拒不能といい、心神耗弱の状態に準じ、事前に成立した合意に関しても、その法的な効力を喪失する。
 SMにおける行為はあくまでも虐待(暴力)であり、抗拒不能の状態を構成することが多く、その合意には法的な効力が無いということを自覚していなければならない。

緊縛美とは何か?

緊縛美という時、大きく二種類に別けられる。
緊縛の技術に関するものと、いわゆる被虐美といわれるものである。

緊縛の技術に関するものの場合の緊縛美とは、すなわち緊縛の技術に関する評価である。
つまり、緊縛が上手いか、下手かというものであるから、その関心は縄のみにあるといってもよい。
表現するのは緊縛の技術であるから、緊縛の対象は人であろうとモノであろうと関係ない。
嫌な言い方をするなら、緊縛の対象となる人は誰でもよいのである。
そこにあるのは、縛り手の「自分の縛りは上手いだろう!」という自己主張である。

一方、いわゆる被虐美の場合には、緊縛の対象は必ず人である。
何故なら、その価値基準は、対象がいかに苦痛を感じているかにあるからである。
ただし、被虐美が成立する条件としては、醜悪が美に含まれるという「醜の美学」という考え方が必要になる。
「醜の美学」とは、19世紀末から20世紀初頭に生まれた考え方で、元々は「美」とは何かを考察する学問としての「美学」において、「美」と対極に位置する「醜」とは何かという考察において、「醜」もまた「美」の一種であるとした考え方である。
本来は学問としての「美学」のみに存在する考え方である。
故に、人間の美意識において「醜」とは、すなわち嫌悪の対象であって、そもそも人間には「醜」に対する欲求は存在しない。
では、何故に被虐美というものが存在するのか?
それは、相手を「醜」と位置づけることによって、「醜」の対極に位置する「美」、すなわち自分を「美」と位置づけるためである。

つまり、一般の人間にとって、被虐美とは嫌悪の対象である。
両者に共通するのは、同好者のみに美として認識されるという点である。

更に共通する点として、SMプレイが性風俗であるという前提による性的描写がある。
SMプレイとしての緊縛とは、強姦もしくは強制猥褻を目的として、相手が抵抗できないように拘束することである。
金銭や物品を奪う際に相手が抵抗できないように拘束したものを緊縛強盗というのと同じで、緊縛という場合には、拘束することが目的ではない。
そもそも、江戸時代以前には、拘束を目的とした捕縄術とは別で、主に刑罰としての殺傷を目的とした特殊な結び方を緊縛と呼んだのである。
つまり、江戸時代以前は刑罰を目的として、明治以降は犯罪を目的として、相手が抵抗できないようにすることを緊縛という。
故に、縄で縛るのが緊縛ではない。

緊縛美とは何か?
はっきり言ってしまえば、緊縛美というものは存在しない。
SMにおいて論じられる様々なSM論、SM観は、すべて性的虐待を正当化するためにのみ存在する。
緊縛美という言葉もまた、性的虐待、すなわち暴力を正当化するための口実にすぎない。
また、ごっこ遊びである性風俗におけるSMプレイにおいて、SM論やSM観を論じるのは無意味であるように、そこに美を論じることも空々しい話である。


ちなみに、江戸時代の縄師の場合、女性の美そのものを表現することが目的であり、結びとはそのための演出の一つ、縄はそのための小道具のひとつにすぎない。
また、性的欲求によるものではないから、性的描写もない。
ポルノとヌードの区別は過去に述べたが、同じように裸体を描いたとしても、性的な目的のものはポルノで、美そのものを表現しようとしたものをヌードという。
緊縛がSMプレイの一つである以上、そしてSMプレイが性風俗である以上、緊縛はどこまでいってもポルノで、ヌードにはならない。

現代でも、芸術か?猥褻か?という議論は絶えないが、猥褻が芸術と詐称することは、古代ギリシアの哲学をはじめ、数千年前から論じられていたことで、既に明瞭な答えがあるのに、それを知らずに議論しているというのは低次元な話である。

緊縛が、性的欲求のはけ口としての、すなわち性風俗としてのSMプレイのひとつとして行われている限り、それが芸術となることはなく、俗に言う猥褻図画の範疇からでることはない。

すなわち、緊縛は日本の伝統的な美ではない。

それが、女性の美そのものを表現しようとする縄師の縛りと混同されるのは甚だ迷惑な話である。
SM緊縛に「縄師」は存在しない。
それは、まさに猥褻が芸術を詐称するのと同じで、無知と未熟によるものと言わざるをえない。

赤縄を結ぶ/赤い糸の伝説

「運命の赤い縄(日本では糸)」とは、中国に発し、東アジアで広く信じられている人と人を結ぶ伝説である。

一般的には、『太平広記』に記載された奇談「定婚店」に由来する。
※『太平広記』は、977-978年にかけて編纂された現存する最古の中国小説といわれる。
※「定婚店」の出典は『続幽怪録』とされる。

いつか結ばれる男と女は、足首を見えない赤い縄で結ばれているとされる。
この赤い縄を司るのは「月老」という老人で、結婚や縁結びなどを司るとされ、仲人や結婚の仲立ちをする者を指す「月下老」や婚姻を意味する「赤縄を結ぶ」という成語が生まれた。
古くは五色の縄の伝説があったものと考えられており、赤縄の伝説だけが現在に至ったと考えられている。

朝鮮半島へ伝わったのが、李氏朝鮮(1392-1910年)のはじめといわれ、その後日本にも伝わった。
日本では、林道春(羅山 1583~1657)による訳本『怪談全書』によって一般に知られるようになったといわれる。
この時、足首の赤い縄は、日本では手の小指の赤い糸として広まった。

ところで、日本古来の「絆(きずな)」は、主に親子兄弟に用いるのが基本で、男女の場合には、一部特殊な例を除けば、一般的には婚姻関係にある男女の間で時間をかけて結ばれるものであるから、「絆」と「赤い糸」は異質である。
最近、「絆」という言葉がいろんな場面で使われているが、その意味からすれば、使うべき言葉は「縁(「えん」または「えにし」)」である。

「赤い縄」の伝説によれば、冥界によって決められた赤い縄で結ばれた男女は、他の人とは決して結ばれないということになっている。
逆に、赤い縄で結ばれた男女は、死以外には、どんな障害があっても結ばれるという。

江戸時代、男女の恋を意味する言葉は「浮気(艶気):うわき」である。
浮気は、別れること、結ばれないことを前提としていたから、赤い縄ではなく赤い糸になったと考えられる。
「情欲」と書いて「こい」と読ませたりもする。
「浮気」の反対語は「本気」ではなく「現実」で、婚姻には「現実の生活」という意味がある。
ちなみに、「不倫」とは正常な人間関係を壊す行為を意味する。

※この伝説に由来するわけではないが、「紅縄庵(くじょうあん)」の紅縄は赤縄のこと、。

ドSとドMの心理学

プロ、アマ、ベテラン、ビギナー、に関係なく、その人のやっていることがSMか?DVか?を判断するのは簡単だ。
SMはDVだと認識した上で、明確にプレイとしてやっているのがSM。
SMはDVとは違うと言っている人がやっているのがDV。
SMをやっている人にサディストはいない。
だって、精神医学上のサディズムは犯罪心理で、特にDVの加害者や性犯罪者などの特徴的な心理のこと。
マゾヒストの場合は、ほとんどが共依存症と考えていい。
およそ一般的には、実際に自傷などの自虐的な行為を行う場合に、それをマゾヒズムとは呼ばない。
本当は、それこそが精神医学的なマゾヒズムなのだが・・・。
ちなみに、マゾヒズムのベースとなっているのはサディズムで、サディズムによる攻撃性が自分自身に向けられるのがマゾヒズム。

ところで、最近は一般の人が自分はドSだとか、ドMだとか言っているけど、この場合のドSは、暴力的な性格を指し、ドSと称することで、自分の暴力を正当化しているのだ。
自分の暴力を正当化してしまっているので、暴力に罪の意識も無く、無意識に他人を傷つけてもまったく気がつかない。
一方、自分をドMだと言っている場合、基本的にはただの妄想癖だと考えていいが、共依存症になると、暴力に遭いながら、本人にはその自覚が無いからとても危険である。
先に述べたが、マゾヒズムというのは、自己のサディズムが自分自身に向かっているものだから、何かのきっかけでその攻撃が自分以外に向かうことがある。
しかも強い妄想に支配されているから、まかり間違うと、殺すか殺されるかという状況までいってしまう。
ドSにしてもドMにしても、結局のところ、精神的に子供なのだ。
ちなみに、日本人の場合、心理面などの内的要因からそうなることは少ない。
誤った情報などの外的要因によるものがほとんどを占めている。

最初の話に戻るが、現在は、DVの加害者や無自覚な被害者がSMについて語っているのがほとんどだ。
それは精神医学でいう解釈妄想症の典型で、同病相哀れむって感じで、お互いにそれを肯定しあうし、否定的な意見は記憶から抹消してしまう。

早い話、こうして書いている内容も、彼らにとっては他人事なのである。

酒に酔つて公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律

(目的)
第一条  この法律は、酒に酔つている者(アルコールの影響により正常な行為ができないおそれのある状態にある者をいう。以下「酩酊者」という。)の行為を規制し、又は救護を要する酩酊者を保護する等の措置を講ずることによつて、過度の飲酒が個人的及び社会的に及ぼす害悪を防止し、もつて公共の福祉に寄与することを目的とする。

(節度ある飲酒)
第二条  すべて国民は、飲酒を強要する等の悪習を排除し、飲酒についての節度を保つように努めなければならない。

-(中略)-

(罰則等)
第四条  酩酊者が、公共の場所又は乗物において、公衆に迷惑をかけるような著しく粗野又は乱暴な言動をしたときは、拘留又は科料に処する。
2  前項の罪を犯した者に対しては、情状により、その刑を免除し、又は拘留及び科料を併科することができる。
3  第一項の罪を教唆し、又は幇助した者は、正犯に準ずる。

第五条  警察官は、前条第一項の罪を現に犯している者を発見したときは、その者の言動を制止しなければならない。
2  前項の規定による警察官の制止を受けた者が、その制止に従わないで前条第一項の罪を犯し、公衆に著しい迷惑をかけたときは、一万円以下の罰金に処する。

-(以下略)

(昭和三十六年六月一日法律第百三号)

一般に「よっぱらい防止法」といわれる法律だが、認知度はかなり低い。

アイドルとカリスマとタレント

「アイドル」
①偶像
 崇拝の対象としての人や物
②憧憬の対象
③人気者

「カリスマ」
①神の賜物
②超人間的・非日常的な資質
③カルト集団における崇拝の対象(カルト・フィギュア)

「タレント」
①才能・技量
②才能のある人
③(テレビ・ラジオなどの)出演者

各③は、本来の意味から著しくかけ離れた使い方だが、一般的には③の意味で使われる。
③の意味は拝金主義に基づいて、マインド・コントロール的手法によって大衆または消費者を誘導し、利益を得る目的で生み出されたものである。
現代の「アイドル」や「カリスマ」や「タレント」の多くは、拝金主義のメディアが大衆から利益を吸い上げるために作り出した疑似餌にすぎない。
多くのメディアにとって、自由に使える疑似餌こそ価値があるもので、本物はむしろ邪魔な存在となる。

最近読んでる本

『犯罪捜査の心理学』
いわゆるプロファイリングの本。
読んでて思うことは、現代社会でプロファイリングって無意味だってこと。
プロファイリングって、犯罪心理の特異性から犯人像をイメージするわけだけど、現代人の場合、犯罪心理が日常化して、その特異性というものが希薄になっているから、隣に殺人犯がいても気がつかない。
アメリカ的な個人主義にはルールはあっても、はじめからモラルというものが存在しない。
※モラルとは何かは過去に書いているから省略
日本のアニメや漫画が海外で人気があるのは、キリスト教的な道徳が否定するものが、無制限に描かれているからだ。
それは、性や暴力など。
それらを日本の文化だというのは変だ。
技術的な点は確かに優れているが、精神面ではどうか?
精神面が発達してこその文化、精神面が衰退したものを文化とはいわない。

話は変わるが、日本の流通システムは複雑で無駄が多いという。
いわゆる中間業者の存在のことだが、そもそも日本の流通システムや終身雇用などは、江戸時代に、より多くの雇用機会を創出するために生まれたもので、「金は天下の回り物」「宵越しの銭は持たない」という言葉に代表され、ある意味では共産主義的な考え方から生まれている。
戦乱の世の後の江戸時代、人口が爆発的に増加した時、利益を集中させず、より多くに分配するためのシステムだった。
以前、何かの雑誌で読んだが、日本的な流通システムがなければ、日本の失業率は50%を超えるだろうと書かれていた。
現在の日本がそうなっていないのは、日本的なシステムがまだまだ生きているからで、大企業に限って換算すると、失業率は50%を超える数字になるらしい。

サディズム

精神医学において、
サディズム(俗称:加虐性癖)とは、「依存的攻撃性(嗜癖)」で、さまざまな精神疾患に由来する、責任転嫁を伴う攻撃的な行動の総称であり、いわゆる犯罪心理のことである。
マゾヒズム(俗称:被虐性癖)とは、「自虐性」で、サディズムの攻撃性が自分に向けられた状態をいう。
それぞれ、精神医学上の病的な状態にあるものをいう。
ただし、病的な状態でなくとも、人間には、(特に精神的に未発達な段階では)誰にでもそうした傾向がある。
それをサディスティック・パーソナリティ、マゾヒスティック・パーソナリティという。

社会学において、
サディズムとは、マルキ・ド・サドもしくはその作品をカルト・フィギュアとする思想をいう。
一般には性風俗においてみられるが、いわゆるカルト教団にみられるマインド・コントロールの支配下にある状態と同じ性質のものである。
精神医学において、これを性的サディズム、性的マゾヒズムといい、上記のサディズムやマゾヒズムとは区別する。
この場合のサディストやマゾヒストは、単なる役割にすぎないから、その心理はどちらもサディズムとなる。
いわゆる性風俗におけるSMプレイとは性的なロールプレイのことであるが、いわゆるSMクラブなどでは従業員と客がカルト集団化するケースが多い。
某カルト教団の事件でもわかるように、マインド・コントロールからの脱却は本人の意思だけではほとんど不可能である。

基本的な間違いとして、被虐性というものは存在せず、あくまで自虐性である。
また、加虐性や自(被)虐性といって正当化しようとするが、その行為は虐待であって、すなわち暴力である。
愛と暴力は反対語であり、愛と暴力は両立しない。
つまり、性的なロールプレイという範囲でのSMプレイは成立するとしても、虐待であるSMが愛情表現であるということはありえない。
それはDV(ドメスティック・バイオレンス)である。

ちなみに、SMはサド-マゾの略と思われているが、元々はセクシャル・マゾヒズムの略で、ヨーロッパの精神医学において性風俗における性的ロールプレイの愛好者を対象とした研究から生まれた言葉である。
昔のSMクラブ(娼館)では、この種のプレイをする客は基本的にマゾヒストのみであり、サディズムは犯罪心理であるから、異なる研究の対象であった。

どうも調子が・・・

長いこと使ってなかったから、どうも調子が悪い。
インターネット関係が特に調子がでないから、<美-SELECTION>の商品アップが・・・。
でも、最も困っているのはここの記事用にまとめていたテキストや資料が使えなくなったこと。
この関係のデータは半分くらいしかバックアップとってなかったから・・・。
ちなみにGALLERY用の絆し絵も・・・。

PCがクラッシュ!?

一昨日、常用していたノートPCがクラッシュ!?
正確には液晶が逝ってしまった!!
昨日はとりあえず予備のPCをセッティングに費やした。
しかし、ある程度のデータはバックアップはとってたけど、一部プログラムが使えないのは痛い!
しかも、使い慣れてないからしばらくは面倒かも・・・。
古いPCだったから復旧は無理だろうけど、データのサルベージはどうにかせねば・・・。
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