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浮気と不倫の違い

江戸時代、「恋」のことを「浮気・艶気(うわき)」といった。
また、「浮気・艶気」=「好色」の意味で、「情欲」と書いて「こい」と読ませたりもした。
そして、「浮気・艶気」の反対語は「本気」ではなく「現実」である。
つまり、「恋」=「浮気・艶気」=「非現実」=「虚構(きょこう)」であり、「別れが訪れることを前提として肉欲に耽ること」という意味。
ちなみに、恋愛において「本気」の反対語は「遊興(ゆうきょう)」とされる。
※「遊興」とは、遊びに興じること、面白く遊ぶこと。


「倫理」とは、人倫のみち。道徳の規範となる原理。
そもそも、「倫」は、仲間や類(たぐい)の意で、人間関係の秩序を意味する。
「不倫」とは、もともとは正常な人間関係を築けない人を指す言葉で、そこから転じて人としての道に反する行為、社会から逸脱した行為を指すようになった。
※「倫理」とは、道徳の規範となる原理であるから、「倫理」が欠如しているということは、道徳という観念そのものが存在しないことを意味する。


「浮気」とは、本気ではない「遊興」をいう。
「不倫」とは、恋愛感情を伴わない肉体関係をいう。

縄師の美学

縄師の縛りは責めに非ず

犯(おか)さず
虐(しいた)げず
貶(おとし)めず
辱(はずか)しめず
蔑(さげす)まず
強(し)いず
侵(おか)さず
奪(うば)わず
汚(けが)さず
傷(きず)つけず

あくまで女性の美を演出し表現するのが縄師、そして縄師の美学。
縛り手の心は縄(縛り)にそのまま表れる。
どんなにきれいごとを言っても、縄(縛り)を見れば縛り手の相方(パートナー)への意識が丸見えになるものだから、縄師に必要なのは、自制と自省。

粋でいなせな…、の「いなせ」について

「ボラ」は、大きくなるにつれて呼び名が変わる出世魚(関東-オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド )で、様々な言葉の語源となった。

「オボコ」は、子供などの幼い様子や、可愛いことを表す「おぼこい」の語源。
「イナ」は、若い衆の髷の青々とした剃り跡をイナの青灰色でざらついた背中に見立て、「いなせ」の語源とも言われる。
若い衆が粋に見せるために跳ね上げた髷の形をイナの背びれの形に例え「鯔背銀杏(いなせいちょう)」と呼んだという説もある。
「トド」は、「これ以上大きくならない」ことから「とどのつまり」の語源となった。

江戸時代の「粋(いき)」を大人の美学とするならば、「鯔背(いなせ)」は、大人(一人前)になる一歩手前の若い衆が意気がって(大人ぶって)「粋」に見せようとする様子をいう。
最近は、「粋」と「いなせ」が混同されることが多い。
たとえば、「粋でいなせな…」という表現は、個人ではなく、様々な年代を含む集団に対して使う言葉であり、「粋」と「いなせ」は同じではない。

耽美なるもの

[耽美主義]
道徳的功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値をおく立場
生活を芸術化して官能の享楽を求める

一般的に、耽美主義は19世紀後半のイギリスやフランスで起こった文芸思潮を指すが、美術の世界での耽美主義的な発想は、人間の肉体への美を描こうとするものであった。 
古典的な絵画において、肉体の美を描く、すなわち裸体を描く場合、描かれたのは神の姿としてであった。
実際に描かれたものが人間の裸体をモデルとしたものであっても、それが神の姿を描いたものとなれば、情欲の対象とはならず、純粋な美として鑑賞され、それが神への信仰につながるということである。
これが美術における道徳的功利性である。
※功利性とは、他の目的の実現に役立つこと。

故に、耽美主義的な発想(特に美術において)とは、神の姿としてではなく、人間そのものの肉体の美として描こうとすることである。

しかし、20世紀の[耽美主義]は、表面的には肉体の美を主張しながら、実態として性欲の対象として扱うことで大衆化し、もはや本来の「耽美主義」とは違うものである。

[唯美主義]は、もともとは[耽美主義]と同一であったが、変質した[耽美主義]と一線を隔し、あくまで性を対象とせずに、美そのものを描こうとする立場として区別される。

極意!?

師の縛りというものは、相手を責めるものではない
相手への信義・愛情を貫いて、互いの心を一つに結ぶもの
荒々しさの無い、淑やかで上品な姿、艶めかしくも、気品の漂う風情を愛しいと感じ、賞美する気持ちがあれば、縛り方は自然と決まってくる

絆(ほだ)し

縄師の仕事は、あくまで女性の美を演出、表現すること。
そのために使う縄は、あくまで小道具、脇役にすぎない。
本来、縄は「結ぶ」のであり、「結び」が完成した状態を「縛」という。
故に、縄師の縛りとは、小道具としての縄を結んで、女性の美を演出、表現することをいうのである。
つまり、縄師の縛りとは、必ずしも縄を結ぶことを意味しない。

どうも調子が・・・

長いこと使ってなかったから、どうも調子が悪い。
インターネット関係が特に調子がでないから、<美-SELECTION>の商品アップが・・・。
でも、最も困っているのはここの記事用にまとめていたテキストや資料が使えなくなったこと。
この関係のデータは半分くらいしかバックアップとってなかったから・・・。
ちなみにGALLERY用の絆し絵も・・・。

PCがクラッシュ!?

一昨日、常用していたノートPCがクラッシュ!?
正確には液晶が逝ってしまった!!
昨日はとりあえず予備のPCをセッティングに費やした。
しかし、ある程度のデータはバックアップはとってたけど、一部プログラムが使えないのは痛い!
しかも、使い慣れてないからしばらくは面倒かも・・・。
古いPCだったから復旧は無理だろうけど、データのサルベージはどうにかせねば・・・。

手鎖人

江戸時代の日本では、手錠が発達しなかったために捕縄術が発達したという人もいるが、江戸時代には高い金属加工の技術があり、既に戦国時代を経て捕縄術が高度に完成されていたために手錠が発達しなかったと考えられている。
手鎖1

手鎖2

「公事方御定書」 下巻『御定書百箇条』(通称)の中には、刑罰としての手鎖(てぐさり)刑があった。
手鎖については以下のような記述がある。
「其のかかりにて手鎖をかけ封印を付け、五日目切りに封印を改め、百日手鎖の分は隔日に封印改め」
また、手鎖の封印を改める者を「手鎖人」という。

作品から


多くのSMマニアが江戸時代にもSMが存在したという根拠とするのがこうした春画である。
「イヤよイヤよもスキのうち」という論理で描かれた艶本は多いが、それは洋の東西を問わず、性犯罪者の多くに共通する論理であり、いわゆる性的サディズムという犯罪心理の自己正当化の典型的な例である。
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これは、幕末から明治にかけて「無惨絵」で知られる月岡芳年の作である。
そもそも「無惨絵」とは、幕末に流行した「残酷物」と呼ばれる歌舞伎や芝居を題材としたもので、この絵もいわゆる「鬼婆」や「山姥」と称される昔話を題材としている。
明治から大正にかけて輸入された欧米の性風俗としてのSMと、月岡芳年の作品を結びつけた作家や画家は多かった。
その代表として挙げられるのが伊藤晴雨であり、その作品としての「責め絵」である。
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また、その影響を受けたSMマニアの多くは、江戸時代以前の拷問をSMと結び付けている。
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そうして生まれたのがいわゆるSM緊縛である。
問題なのは欧米から輸入された時点で、既に欧米におけるSMに対する認識自体が性犯罪を正当化する方向、虐待行為へとゆがんでいたということである。
すなわち、精神医学上の犯罪心理としてのサディズムや、マルキ・ド・サドやその作品をカルトフィギュアとする社会学的サディズムに関する知識が欠落していたという問題である。
つまり、SM緊縛の歴史は、現実的にSM緊縛に相当する作品は伊藤晴雨以前に遡ることはできない。
しかし、虐待ではない、性的な指向とは異なるものがあったことはわかっている。
それが江戸時代の縄師による美人画である。
私自身は一度だけ目にしたことがあり、現在も個人の蒐集家が所有していると思われるが、所在は不明である。
有名絵師の作品ならなんらかの形で表にも出るのだろうが…。
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